「国家の罠」 読書感想文

「国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて」佐藤 優 新潮文庫
 先ほど、上記の書籍を読み終えた。
 鈴木宗男議員を失脚させるために、その腹心として背任と偽計業務妨害の容疑で逮捕された佐藤優氏の回顧録である。
 印象深い記述は多いが、特に本書の全編を通じて述べている「時代のけじめとしての国策捜査」について、現在も続いている国策捜査裁判「植草事件」に照らし合わせて考察する。
 あらかじめ断っておくが、植草事件は鈴木宗男事件の後に起こった国策捜査であり、本書では植草事件について一切語られることは無い。


 まず、植草事件が国策捜査である以上、これが無罪判決を勝ち取ることは無い。
 なぜなら国策捜査だからだ。
 政治が植草排除に動いた以上、検察はなんとしても植草を有罪にしようとするし、その力がある。

 では植草氏が裁判で係争するのは無駄なことか?

 国策捜査で被告を断罪するとき、検察は一つの配慮を持つという。
 それは、刑ができる限り小さくし実刑を伴わないことだ。
 国策捜査で逮捕されるものは、その分野の第一人者であり、国にとって有益な人物だ。早く決着をつけて、社会で活躍して欲しいと願っている。
 佐藤氏はロシア外交を専門とする一流の外交官である。
 佐藤氏ができる限り早く社会復帰するために、被告は検察の言い分を素直に呑んで、裁判を終わらせるのが「賢い生き方」だ。

 佐藤優の取調べを担当した西村検察官は、この言い分で佐藤に取引を求めてくる。
 しかし佐藤はこれを受け入れない。
 自分が国益を思って尽力した行為、それに協力してくれた鈴木議員をはじめとする上司・部下ら関係者の行為を、方便であっても汚すことはできない。検察は佐藤に罪を押し着せる能力があるのだから、それを行使すればよい。
 しかし、自分が正しい主張を公判の記録に残せば、後の人間がその記録を見て、何が起こったのか判断することができる。

 公判で、佐藤氏は容疑を否認し続けるため「反省の色無し」として、より重い刑を受けることになる。(但し執行猶予付き)
 しかし、作文された容疑を記録として残すくらいなら、罪の押し付けを記録に残したいというのが佐藤氏の選択だった。

 他方、植草氏も決して容疑を認めない。
 植草氏にかけられた「迷惑防止条例違反」なぞ、容疑を認め反省を示せば数十万程度の罰金で済む軽犯罪だ。また、国策に反する活動を続けなければ、社会復帰の道も設けられるはずだ。植草氏もまた、エコノミーアナリストとして日本の第一人者だ。彼が社会で活躍することは国益に適う。
 でも植草氏は認めない。
 小泉政権の弾劾を、自分の国策捜査でうやむやにされることを絶対に認められないと考えているのだろう。
 また、異常な裁判進行を、自分の否認によって記録として残す意図もあるだろう。

 佐藤氏は外交のエリートとしてロシア外交官や要人らと丁々発止を繰り広げてきた経験があり、検察とも微妙な駆け引きを繰り広げる。
 相手の求めているものを読み取り、自分が求めるもの明確にし、より有利な条件を引き出そうとするが、譲れない線は断固として譲らない。その姿勢は外交交渉と酷似している。
 交渉のプロ中のプロである佐藤氏に対して、植草氏は経済の学者であり、交渉に秀でているとは考えにくい。
 佐藤氏は検察と真っ向から対立しながらも、敵の意を汲んで自分に有利な立場を作って行ったが、植草氏に同様の駆け引きは難しいかと思う。
 検察の論告を真っ向から否認しつつも、佐藤氏は執行猶予を得、植草氏は実刑判決を受けているのはそのあたりに原因を感じる。

 ただし、上に書いたように、検察は国策捜査で被告に実刑を与えることを基本的に嫌う。
 植草氏が実刑判決を受けたのは、検察側の能力不足も原因の一つだろう。



 植草事件と鈴木宗男事件は、供に長い拘留期間という共通点がある。
 植草氏は132日。そして佐藤氏に至っては512日。鈴木宗男議員は437日である。
 佐藤氏の拘留が長いのは、佐藤氏自身が「保釈拒否」という特殊な戦術を使っているのが大きな原因だが、なにも検察が出て行けと言ってるのに出て行かなかったわけではない。
 そもそも、未決囚の拘束には法的根拠が必要で、逃亡や証拠隠滅の恐れありと認められなければ拘束を続けることはできない。検察が毎月拘留継続の手続きを踏んでいるから、拘留が続くのだ。
 佐藤氏が拒否したのは、不当に拘留を続ける検察に対して保釈金を担保に「出してくださいとお願い」する行為だ。不当に拘留を続ける検察におもねり、出してくださいと懇願するのは願い下げだというスタンスだ。

 この長期拘留に対する興味深い記述があったので紹介する。

(前略)  現状では、罪状を認めない被告人を検察は極力拘置所にとどめようとする。被告人が容疑を否認した場合、初公判まで保釈が認められることはまずない。初公判後も、被告人・弁護人が検察側が証拠として請求した供述書に同意しないならば、検察側請求の証人が法廷で証言を終えるまでは保釈が認められることもほとんど無い。被告人が否認で筋を通すならば、一年以上、拘留されることは今や「常識」なのである。長期拘留と言う形で被告人を「人質」にすることで、検察は自らに有利な状況を作ろうとしている。事実、長期拘留に対する恐れから、無実の罪を認めたり、あるいは自己に不利な供述調書を証拠として認める事例はいくらでもある。
 もっとも、国際スタンダードでは、このような「人質裁判」が横行するのは国家権力が弱っていることの証左である。強い国は無理はしないものだ。私は「人質裁判」に現れた日本の現政権の「弱さ」をきちんと記録に残したいと考えた。(文庫版474頁)


 また、別の共通点として「無理の大きい事件仕立て」がある。
 どちらの事件も、被告の犯罪を否定する証拠や証言が多く提示されているにも関わらず、それら全てを無視し、検察側の主張だけを受け入れて罪を確定している点だ。
これについては、佐藤氏の弁護人が次のように抗議している。

(前略) 弁護人たちは、法律家として、特に元検事として今回の事件の作り方に憤慨していた。外務事務次官の決裁まで得た国際学会への派遣案件を背任とするのはいくらなんでも無理がある。初めに鈴木宗男ありきで私を捕まえて、後はいかようにも事件を作り上げ、それを鈴木氏の逮捕につなげていくと言うのが検察のやり方だった。しかし、そのような事件を許してしまえば、公益の代表である検察の自殺行為に等しい。司法の危機が生じていると、弁護団は真剣に考えていた。(同301頁)


 私なりにメディアを見守っていると、今ではおかしな裁判なぞ枚挙に暇が無い。この当時(2002年)では「司法の危機」だったかもしれないが、今や「危機」を通り越して、崩壊が進んでいるのではないかと危惧する。



 今回、国策捜査として共通する植草事件を鈴木宗男事件にからめて本書を考察したが、それ以外にも読むべき点の多い本だった。
 特に、行き過ぎたナショナリズムは国益を損なうという主張に興味を持った。いまネット上を代表する若い世論でナショナリズムが急速に広まっている。
 メディアや政府はそれを押さえ込む方向に動いているが、それが余計世論が政治のスタンスと乖離する傾向となっている。
 私自身、このブログでも多くナショナリズムを訴える記事を書いてきたと思う。
 でも、それだけでは足りないのだと知らされた。
 それについても、おいおい書いていきたいと思う
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